論語とは
論語とは春秋時代の思想家の儒教の始祖とされる孔子の言行を弟子が記録した書物です。
儒教の経典四書の内の1つであり、他に「大学」「孟子」「中庸」が存在しています。
論語には「仁・義・礼・智・信」の人生で大切で目指すべき五徳が登場します。
仁の思いやり、義の正義、礼をもって、智を備え、信頼されることが大事とされています。
日本でも天皇陛下の名前に「仁」が使用されるよう「仁」が特に重要視されているようです。
過去では200年に及ぶ江戸幕府の土台を作った徳川家康も論語の影響を大きく受けており有名は言動にも論語からの引用が非常に大きく、江戸時代では朱子学と呼ばれ全国で奨励されていました。
また「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一も晩年の著書の題名が「論語と算盤」と名付けるように中国ではるか昔に作られた論語ですが人としての本質や大事なものは不変であると考えさせられ、それは現代でも論語を学ぶことは有意義であるということもできます。
下記に代表的な論語をまとめてみました。
ほとんどが「子曰く」孔子がいわれたと始まりますが今回は省略しております。
人生論
学ぶことは人生の喜び
子曰く、学びて時に之を習う。亦説ばしからずや。朋有り、遠方より来る。亦楽しからずや。人知らずして慍おらず、亦君子ならずや。
孔子はいいました。習ったことを、機会があるごとに復習し身につけていくことは、嬉しいことだ。
友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことだ。
人が私を理解してくれなくても気にする必要はない。それが君子(立派な人)と言うのではないだろうか。
これは論語の最初の有名な一節です。
学ぶことは知るだけでなく、繰り返すことで自分に身に付くものだといっています。
志を同じくする友人とたまに会って話をすることが人生の喜びだといっています。
また、世の中の人が認めてくれなくても自分の信じたことに喜びを感じることが大切だといっています。
三十にして立つ
吾、十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず
私は15歳で学問を志し、30歳になると独立し、40歳になると迷うことが無くなり、50歳になると天命(宿命)をわきまえるようになり、60歳になると人の言うことも素直に聞くことができ、70歳になると思うままに行動しても間違いを犯すことも無くなった。
孔子が人生を振り返った言葉であり、15歳を「志学」30歳を「而立」40歳を「不惑」50歳を「知名」60歳を「耳順」70歳を「従心」と言われます。
常に今何をするべきかを考え人生とは日々挑戦し成長していく事が大切であると考えています。
過ぎたるは猶及ばざるが如し
子貢問う、師と商とは孰れか賢れる。子曰く、師也過ぎたり、商也及ばず。曰く、然らば則ち師は隃れるか。子曰く、過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し。
子貢が師と商では、どちらが優れていますかと尋ねた。先生は師はやりすぎていて、商はやり足りないと言った。子貢がではつまり、師の方がまさっているか尋ねると、先生は過ぎるのは足りないのと同じだと言った。
何事もちょうどよいのが好ましいと考えており終着点の見分け方が大事であると考えています。
徳川家康の遺訓にも同じような「及ばざるは過ぎたるよりまされり」という言葉があり論語を体現した言葉となっております。
過ちて改めざる是を過ちという
君子、重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ。過ちてば則ち改むるに憚る(はばかる)こと勿かれ。
君子は、重々しい雰囲気がなければ威厳がありません。学問をすれば頭が柔軟になります。『忠』と『信』の心を大切にして、畏敬の念を持てない人を友としてはいけません。過ちがあったのなら、それを改めるべきだ。
人は誰でも過ちを犯すものです。過ちを犯した後、過ちを素直に認め繰り返さないように改めようとすべきです。改めなければ真の過ちとなってしまうということです。
為せば成る、成らぬは人の為さぬなりけり
子の道を説ばざるに非ず。力足らざらばなり。
子曰く、力足らざる者は中道にして廃す。今汝は画れり。
先生の道徳の道を学ぶことがうれしく思わないのではありませんが、私の力不足で進歩がありません。先生がおっしゃった。力が足りない者は途中で挫折するものだ。
(お前の場合はそうではない。)初めから自分自身の限界を決めてかかっているのだ。
「為せば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」は上杉鷹山の有名な句ですが、
元は武田信玄の「為せば成る為さねば成らぬ 成る業を成らぬと捨つる人のはかなさ」から来ていると言われています。
何事もできないというのは努力が足りていないということで、やり遂げることが大切であるということです。
正直に生きるということ
人の生るや直し、之を罔して生くるや、幸いにして免るるなり。
人が生きていくには道理があり、道理とは正直で誠実なことだ。もし正直でもなく、誠実でもない人がいたら運がよくたまたま助かっているだけだということ。
人は本来正直で生まれてくるが学習や生き方で大きく変わっていきます。
よい人生を歩むためには、正直で誠実に生きなければならないということです。
仕事論
ひとつに限定しない能力
君子は器ならず
人の上に立つ君子は、一つのことにかたよることなく、幅広くその能力を発揮するべきである。
幅広く自由な発想を持つことが大事である。
徳を持ち生きる
徳は孤ならず必ず隣あり
徳があって孤立することは無い、必ず人はついてくるものである。
徳を持ち真面目に向かう姿に、周囲をひきつけ共感する人が集まるということです。
仕事を楽しむことが最高の状態
これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
よく知る人もそれを好む人には勝てない、好む人もそれを楽しむ人には勝てない。
楽しむことができる仕事があれば、好結果をうみ素晴らしい人生にすることができるということ。
4つの大切なこと
四つを以て教う。文、行、忠、信。
4つの事を教えられた。学問を学ぶこと、学んだことを実行すること、真心をもち、信義をつくすこと。
視観察
その以す所を視、その由る所を観、その安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや、人焉んぞ捜さんや。
その人の行動を見て、その人の行動の由来(原因)を観察し、その人の行動を支える信念(思想)を推察するならば、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか、人間はどうやって自分の人柄を隠し通せるだろうか。いや、隠しおおせることなどできないだろう。
視とは行動、観とは動機、察とは本質。
その人を判断するときはよく見るべきであるということ。
智仁勇
知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼(おそ)れず。
知者は(正しい知識を備えているので)判断に迷う事はない。仁者は(正しい行いを心がけているので)悩む事はない。勇者は(正しい時にのみ力を用いるので)恐れる事はない。
智仁勇とは儒教で基本的な3つの徳。
同義で知情意という。知性と感情と意志。
夏目漱石の「草枕」の冒頭にも、この「知情意」について触れている部分があります。
「山路を登りながら、こう考えた。 知に働けば角が立つ、情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とにかく人の世は住みにくい。」
「知に働けば角が立つ」とは、「知」で、知的でいようとすると人間関係が難しくなるという意味です。
「情に棹させば流される」の部分は「情」で、棹とは船をあやつる、さおの事で、これを情にさらすと、思ってもいない所へ流されてしまうという意味です。
「意地を通せば窮屈だ」の部分は「意」で、自分の意地を通すと生きづらいという意味です。
「知情意」の内いずれかひとつが突出していても、それはバランスを崩すことになり、結局うまくいかないということ。この3つの要素の「バランス」こそが重要ということです。
学習論
自分で考えることの重要性
学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。
学ぶことや本を読むだけでは十分でなく、自分自身で深く考えなければならない。
また、自分の思い込みだけも独断専行となり危険である。
学ぶことと思うことが両方備わり十分である。
教育とは植物を育てる事に似ている
苗にして秀でざる者あり。秀でても実らざる者あり。
芽を出して苗に成長したのに花を咲かせない人がいる。
花が咲いても実のならない人もいる。
人間の成長を植物にたとえ素質はあってもうまく育たない時もあるということ。
ことわざで「十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人」という言葉があります。
子どものころは並外れた秀才と思われていた人も、成長すれば平凡な人間になることが多いということの意味で教育者としての育て方の重要さを感じることができます。
学問に終わりはないものである
学は及ばざるが如くするも、猶おこれを失わんことを恐る。
学問は追っても追っても追いつけないものを追うように、常に励み、その上でも追いつくことができないと恐れるくらいの気持ちで取り組まねばならない。
学歴や就職をするために勉強をし満足することなく、自分自身の成長のために勉強をするという気持ちでするべきである。
剛毅木訥
巧言令色鮮し仁。剛毅木訥仁に近し
口先だけうまく顔つきだけよくする者に誠実な人はいない。真の人格者はむしろ口が重く愛想がない。
剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)とは心が強く、無口で飾り気がないこと。
信念を貫くことは素晴らしいが、度が過ぎると強引になり危険な方向へ行ってしまう場合もあり
そうならないために様々なことを学ぶことが大切であるともいっています。
三人集まれば師がいる
我三人行なえば必ず我が師を得。其の善き者を択びてこれに従う。其の善からざる者にしてこれを改む。
人が3人集まれば、手本にすべき人がいる、また反対に反面教師とすべき人もいるということで、いかなる場合でも学習の機会はあるということです。
無知の知
女にこれを知ることを誨えんか。これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為せ。是知るなり。
“知る” と言う事を教えてあげよう。 それは知っている事を知っていると認め、知らない事を知らないと認めることだ。これこそ本当に “知る” と言う事だ。
有名はソクラテス「無知の知」と同意で、彼は何も知らないのに何かを知っていると信じており、
これに反して私は何も知りはしないが、知っているとも思っていない。ということです。
本当にものを知っているということは知らないことは知らないと認めることです。
論語読みの論語知らず
論語読みの論語知らずとは、表面上の言葉だけは理解できても、それを実行に移せないことのたとえ。
知識が増えても実践できなければ持ち腐れとなってしまい、インプットだけでなくアウトプットすることも大切であると日々の生活では肝に銘じたいと思います。
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